ユタとは
琉球列島(沖縄・奄美)のシャーマン。
琉球各島々で異なる風土や歴史的背景を背負いながら伝承を受け継ぎ、霊能力と技を実践している。歴史的に弾圧を受けながらも、ひっそりと生き続ける土着の民間霊能者又は拝み屋的存在
奄美には500人位(1983年頃のユタ神様の聞き取りによる)のユタがいるといわれています。激しい神がかりを体験してユタになります。その殆どが神がかりの発作を鎮める為に人知れず神様を拝むだけに留まり、実際に個人の運勢を視る活動をしているユタになると20人位ではないかと思います。年齢の多くは40代で正式ユタになるので現役ユタは50~80代の高齢者が殆どです。牛や乳製品を嫌う人が多いです。
ユタになれば霊能力で人の運勢が視れる訳ではありません。
人の運勢を視る力は役割として与えられて、更に修行をして覚醒していくものです。ユタの中で霊能力を開花させられるのは20人に1人位ではないかと思います。
ユタと間違われやすいノロ
ノロは琉球王朝時代の国家公務員。
世襲制、団体活動で村の祭事を行う、霊能者ではありませんので占いはしません。(先祖からの引き継ぎ・女性限定)
琉球王朝の時代に作られた政治的制度。現代で言えば神社庁の管理する神社の巫女さんのような存在です。首里王府から発給された辞令書を元に、各島々の村に配置され祭事を担当する国家公務員のような位置づけでした。琉球王朝の時代が終わったので本来はノロの役目も終りですが、村人の心に深くに根付いてしまった信仰心はなかなか消えずにいます。
一部は村の有志達によってノロの祭事を復活させています、その中でユタが関与する場面も少なくないですが、現在ノロの祭事は衰退の一途を辿っています。また、1609年に薩摩藩は琉球侵略で権力を知らしめる為に、神に仕えるノロ達を民衆の前で馬で引廻しました。厳しい弾圧に耐えられず、ノロが次々に飛び降りたとされる悲しい岬も存在します。想い半ばで亡くなり、神への信仰心を強く持っていたノロが先祖にいる場合、子孫のユタの前に現れて祭事を続けて欲しいと、霊となって現れ、願ってくる場合が多いのです。
現在は奄美・沖縄に住んでいる人でも、探求したり民俗学を学んだりした人でないと「ノロ」と「ユタ」の違いを説明出来る人は少ないです。
※参考
『由来記』(一七一三年)には全地域(奄美を除く)二百四十九人のノロの名とその拝所が記されている。
ノロの記録
奄美では現在も行われているノロのお祭りを見る事ができます。
国指定重要無形民族文化財指定「平瀬マンカイ」
龍郷町にある秋名集落では毎年旧暦の8月に行われている。
その他、資料映画
①『奄美のノロまつり1 -加計呂麻島-』
1987年/カラー/34分/製作:民族文化映像研究所/鹿児島県教育委員会委嘱
②『奄美のノロまつり2 -奄美大島-』
1988年/カラー/32分/製作:民族文化映像研究所/鹿児島県教育委員会委嘱
ユタの定義
伝承された祭事や神唄又は祝詞(古い方言で唱える物)を受け継いでいる。
基本的には親神(指導者)に習うのですが、なかには親神を立てずに祖先のユタ又は神様から直接霊的に指導を受ける者もいます。(その場合でも同じく伝承を受け継いでいる)
厳密に言いますと奄美ではマブリワーシ(身内が亡くなり49日近くの日に家族が集まり霊媒が死者を身体に乗り移し、最後の言葉を聞く儀式)をする人の事をホゾンガナシと呼んでいました。
つまり、このホゾンガナシの事をいつしか奄美ではユタ神様と呼ぶようになったのです。
但し、身体にとっても負担のかかる技ですので、ユタ神様によっては各理由において技を受け継いでいるものの実践していない方もおります。特にこの儀式は奄美では知られてはいるものの依頼者の身内でない限り実際に見る機会は少ないと思います。
私の考えるユタの定義、この線引きをしっかりとしないと、琉球文化の1つであるユタの歴史を知る上での手がかりを失ってしまう事になりますので大切にして欲しいと願います。
ユタの語源
古い本にユタの事を「世多」世の中の事を多く知る者と書いてあるものもありますが、ユタはとにかく良く喋る人が多いので、奄美沖縄共通の方言で、お喋りの事を「ユンタ」といいます。私はこのユンタが語源ではないかと考えています。
昔の事をよく知るユタ神様によれば「ユタ」は沖縄からきた言葉で、近年学者方が統括する為に使ってる言葉だとも言ってました。
ユタの呪術
運勢を占う、祈願、お払い、病気平癒、口寄せ等
どのユタもそれぞれの神様を持ち、また得意分野も違います。
遺伝性と偶発性
昔の事をよく知るユタ神様によれば、ユタはその一族に約70年周期で生まれる遺伝的要素があるという。つまり、ユタを孫が受け継ぐケースが多いということです。
そのユタ自身もまた御祖父さんが魔法口(法力)を使いこなすユタであった。
遺伝性が強い場合「引継ぎユタ」とか「親ホゾン」と言ったりします。また一族に該当者がいない場合、直接天から使命された者として「天ザシのユタ」と呼び方を分けて言ったりします。
私の場合は親ユタから「天ザシ」と言われています。
私の調査では母側や沖縄の祖母側なら引き継ぐ要素が強いと考えられるが、まったく要素の見つからない御祖父さん側の円集落が私の神の聖地になったことや、指導霊が先祖ではなく山の神を名乗る仙人であったことも含め、私の場合遺伝的要素は今のところ考えにくい。
遺伝性?
<私の血縁関係>
●本家 龍郷町円(えん)集落
祖父=神様とか大嫌いな人で一切信じる様子もなく、また霊感とも無縁であったようだ。
父 =同じく霊感とは無縁の存在。
この集落の親戚関係でユタや不思議な力をもった人はいなかったようだ。
●祖母側 沖縄
祖母=霊感はないがユタが大好きで、信仰心が厚い。
祖母の母親(私の曾祖母)は「神がかり」を起していたが、とても貧乏でユタのところに行くお金がないまま亡くなったそうだ。
●母親側 大瀬集落(フーシィ<大きな石>集落。海岸に大きな立石がある)
母 =小さい時から霊感があり、戦争中はよく幽霊を見て触れることもできたという。ウトウトすることが多く、その時はいつも何人かの決まった人と話をしているそうだ。意識がハッキリすると内容を忘れてしまうらしい。
父によれば母は寝相が悪く夜中に大きな声で唸ったり、訳のわからない寝言を言うから隣で寝られないという。母に聞くと頻繁に金縛りに遭い、天井から人が落ちてくるので格闘していたらしい。
私が正式ユタになって初めて母は自分の霊体験を話してくれ、また、私が神を拝むようになってそれらのことがピタリと止まり体調も良くなったそうで、それもまた不思議だと話してくれた。
母の兄弟=一人だけ霊感があり、その能力を天理教で発揮している人がいるらしいが、あまりユタとは関係なさそうだ。
まとめ
2017年7月21日(金)記
ユタの道を歩みながら自分自身も研究者的思考で答えを求め続けました。
私なりの答えをここに残したいと思います。
ユタとは霊的に受け継いで来ているものです。
基本は直接的先祖又はそれ以外
その結論に至った理由についてここに書きます。
ユタになる儀式“神つなぎ”(神様と盃を交わす結婚式のようなもの)において、私の親様の時代(昭和初期)頃までは白馬が使用されていた。新ユタが白装束で白馬に乗り、親様(指導者)が祝詞を唱えて馬にシュギ(白玉団子)を食べさせると、馬が勝手に歩き出し立ち止まった場所を掘ると、木箱に入った鏡、剣、勾玉、盃等の神道具が出てくる。それを引き継ぐべき道具として大切に持ち帰り神棚にお祀りするという習慣がありました。
実際に私の母親の幼少期の体験として、家の前の道端で遊んでいると、白装束で馬に乗り白目を向いて刀を振り回して新ユタが走って来ました。母や周りの人はひかれそうになり懸命に逃げました。その馬はそのまま民家に入って行ったそうです。そして、その家には引き継ぐべき神棚と道具があったそうです。
私の尊敬する導き親の芋高神様は、神つなぎの時に白馬が用意できなくて、背の低い黒っぽい馬(おそらく宮古馬)に白い布を被せて乗ったと言っていました。話では馬を使った最後の神つなぎ儀式だったのではないかと話していました。引き継いだ刃の錆びた刀を神棚に祀ってました。
馬を使わなくなった昭和初期以降のユタ達は、亡くなる前に子孫に「自分が死んだあと、神道具をもらいに来る人が現れるから渡して欲しい」と遺言を残すようになっているようです。中にはキーワードを伝えて、それをちゃんと言って来た人だけに渡して欲しいと伝えている場合もあります。
昭和初期以前のユタ達が何故、土に埋めて隠さなければならなかったか、そのヒントはある文献で見つけました。
薩摩藩が奄美を制圧した時に貴重な食料や動物を神の生贄や供養に使うとして、ノロやユタ狩りをした時にユタ達は山に登って、神道具を埋めて隠したという話があります。
この頃埋めた道具に込められた想いを引き継ぐ者が、霊的に導かれ探し当てるのだと思います。その道具を使っていたユタのやっていた事を全て受け継ぐ、川や海の聖地、拝んでいた神様、神様の名前や祝詞も霊的に自然と口から出てくる人も多いです。
芋高神様は神様の名前も祝詞(唄)も自然に口から出てきたオリジナルのものでした。最初の親様の興神様は習字のような文字で天照という文字が視えて、滝行をしている時にアマテラスと口から出たそうです。
私もどこかの山奥の人が入らなくなった道に小さな仏像があってその下に小さな木の箱があり、その中には盃やコップ等が入っているのをずっと視せられていて、何度か聞き取り調査して探しては見ましたけど、なにせ奄美はハブがいるので、慎重にならざるえない部分もあり見つけられずにいます。
私の場合は、川の聖地に着いた時に自分自身が長い剣を持ち背中に弓矢を担いだ男と一体化したような感覚になりました、剣を天に高く振りかざし「うおーっ」やまびこがするほどに叫び、「アマテラスの命」と叫んでいました。
昔この場所でアマテラスの命を拝んでいた男の引き継ぎをしたのか、その男の荒々しさから「須佐之男の命」を思わせる感じもしました。又はアマテラスに仕えている男神。
余談ですが、興神様は神がかりの時に先祖のノロが夜な夜な枕元に座ってノロの役目を引き継いで欲しいと言ってきたそうです、その事を親様(よしつ)に相談したところ「ノロは絶対に引き継いではダメです、ずっと子孫まで続いていくから大変な事になる」と厳しく言われて、断り続けてやっと解放されたそうです。
私個人の考えとしては、ノロは神聖化されて、神様と思い込んでいる方も多いけれども、元々は神様を拝んでいた人間であるので、想い半ばで弾圧された無念に対する供養はしても、神様として拝むべきではないと考えています。
地域の方々とともに奄美の文化としてノロのお祭りを残す事は大賛成です。
“祖先の先に神あり”です。
ユタの修行
ユタの修行とは滝に打たれたり自分自身を追い込んで精神を鍛えるといったものではありません。
ユタは自分と関係がある(呼ばれる)聖地で、生きた神々と特別の日に繋ぎをして力を貰って行くのです。
自分と関係の無い場所で、意味の無い日に、自分の意思で精神修行をしても何も力がつきません、力は神が与えるものであり、人間が選んで得られる物ではないからです。
精神修行は、激しい「神がかり」の中で行われ、悪霊に対する恐怖心等を克服し、それに耐えた者だけがユタになれるのです。
行くべき聖地は沢山あります、奄美ユタは奄美だけで良いのではなく、琉球全島またはユタによっては、本土や国外にまで広がる方もいます。
奄美の神社の多くは、昔ノロやユタが聖地として信仰していた場所に後から建てられています。
【修行形態】
●七日七夜(同じ聖地に行くこと)
●七ヶ所参り(一日で七ヶ所廻ること)
【内容】
●聖地に行く時は、正装で必ず海の水で身を浄めてから行く。
●線香、米(三合参酌)、神酒、シュギ(7個)、餅(2個)、を供える。
●祝詞を唱え、神がかりになり踊る(神様は唄と踊りが好き)
【目的】
直接の啓示で呼ばれ、先祖が御世話になった神様や、受け継ぐべき神とつなぎをして、力を貰いユタとしての役目を悟って行く。
相談者の神障り等を鎮める場合、原因となった神様とつなぎをしていると有利になります。
奄美と沖縄の苗字
文献によれば琉球を侵略した薩摩藩は本土と琉球人を区別する為に苗字を変えさせたとあります。
本土ではあまり使わない漢字を使わせ更には、奄美は一文字姓(元、中、円、等・・・)沖縄三文字姓(具志堅、与那嶺・・・)
そのような歴史的背景があったので、一文字姓のままだと本土に行くと肩身が狭い思いをするとの事で、時代が変わり奄美は苗字を変える事が容認されて、多くの人が一文字にもう一つ漢字を足して二文字姓に変更した。(例、円⇒円山)
そして、各家庭の家系図が琉球王朝に繋がってゆく歴史を抹消する為に、そのようなものも焼き払ったとされてます。
陰(奄美)と陽(沖縄)の関係
ある研究者が、今井権現の旧暦九月九日の祭りを見てイザナギイザナミの男女二神が降り立った地は、男神は沖縄、女神は奄美(今井権現降臨の地)だと思うと興奮して言ったそうです。
【土着信仰の違い】
沖縄:高い山が少なく太陽を真っ直ぐ浴びる平坦な土地の為か、太陽信仰であるヒヌカン(火の神=太陽の一部)が根っこにあります。
奄美:平地が少なく山が多い熱帯雨林、雨が多く水が豊富で“水の島”とも呼ばれています。水神信仰であるアムィゴ(先祖が命を貰った川)が根っこにあります。
【民謡の違い】
琉球民謡(沖縄)シマ唄(奄美)の世界からみても陰と陽の大きな違いがあります。
沖縄=太陽(男性)的に力強く、男性が主になっている(太い弦:音程低め)
奄美=月(女性)女性が主ですので、男も女性キーに合わせて裏声を使って唄う、切ない(細い弦:音程高い)
*一節には裏の声、神の世界に通じる声、神と交信する時に神語として使われていたとか、神がかりになって神と交信する為にユタが唄っていた唄が、シマ唄の始まりだったとか。奄美シマ唄の中には、現在でも唄うと不思議な事が起こるとして慎重に扱われている唄が実際にあります。
名称と役割の分類
消えた、幻の経典「時双史」(ときそうし)
琉球の信仰で「吉日選び」に重要な宗教的意味がある。
その考え方の元になる中国伝来の経典があった。
1503年頃?、古く沖縄の伝説的人物に、
「京のウチマルキ」「堂の比屋」「ムクダ大時」「安里大親」
という、月をよみ日を知る天体観測者、占師、預言者として民衆に知られた人々がいた。
やがて、王府の開明政策に触れることとなり、2百年程前にその所依の経典「時双史」(ときそうし)
も焼き払われたという。
◇トキ
男性の巫覡で日の吉日を選ぶ。古く宮廷の巫覡長を時之大家子(トウチヌフヤク)
といい公的魔術師として、政治上に大きな威力を持った。
・物知り(ムヌシリ)
・書物(シュムチ)
・三世相(サンゼソウ)
トキの流れを汲み、更に中国の方術の知識などを習得した者達。
◇風水見(フンシミー)
いわゆる風水師のことである。現在、沖縄風水と呼ばれているが古くから沖縄では、
家、店の建築や墓の位置などにこの占いが取り入れられている。
≪公的祭事者≫
◇聞得大君(キコエオオキミ)
ノロの最高権威者。即位式では首里からセファーウタキまで大行列で歩き、
金の枕を神様と共にして交わり、金の髪飾り、金の勾玉を身に着けた、
あの卑弥呼を思い出させるような存在。
◇祝女(ノロ)
部落の宗教的代表者でかっての公議の祭りの女神官
◇根神(ニーガン)
部落を代表とする神女
◇ウクデイ
各門中から出る神女
◇司(ツカサ)
先島諸島でウタキ単位に置かれた神女の長
*聞得大君は別として、公的祭事者達をまとめて神人(カミンチュ)と呼んだ。
神人になる女性は、霊感有る無しではなくそれぞれの家筋からでた、処女の娘、姪から
ユタやムヌシリが関与して選定するのが、通例である。
※参考・沖縄奄美の民間信仰
食の戒律
ユタは食べられないものがけっこうある。
神の使いになる動物や、空を高く飛ぶ鳥は食べられない。
結局、肉は豚と鶏以外は食べられないのではないかと思う。
乳製品禁止
親神様によれば神様は臭い匂いを嫌うので、鰻やニンニク等の匂いのきついモノを食べて神棚に座ると神様が逃げてしまうと言う。
*線香なども香りの良いものを選びます。
親神様(興ナツ子)は、若くしてユタになった私の健康を思って、「あんたは年も若く働き盛りだから牛を食べても体がなんともなかったら食べなさい」と言った。
私の知ってる限りのユタは、牛製品を避けている。口にすると、口の周りにぶつぶつができたりとアレルギーが出ると言う。また、神つなぎをすると体質が変わり、食べ物の好みが変わったり、牛アレルギー等が強くなる人が多いと言う。
で、私は神つなぎをした後、とにかく匂いに敏感になって、生臭いものが食べられなくなってしまいました。
今まで好きだった某ファーストフード、少しでも鮮度が落ちた生物等、食べると吐き出しそうになります。
肝心の牛製品はどうかと言うと、私の場合はなぜか食べてもなんともなかったので、食べていましたが、この親神様には牛製品は食べてはならないと言われてしまいました。
この牛製品禁止が私にとってはとても辛い修行に感じます。
奄美の食生活はもともと豚肉と魚中心で、牛肉はあまり食べないのですが、この東京においては、豚より牛中心という感じですし、鮮度の悪い魚はあまり食べる気になりませんので、カルシウムをどこで取るかという問題にも突き当たります。
また、食品売り場にはケーキやアイスクリーム、ミルク入りコーヒー等、「乳」の文字の入った食品がほとんどですから、その中から「乳」の文字が入ってないものを探すのも一苦労です。
歴史的背景
神道の考え方とほぼ同じではないかと感じました。 その書によると牛と馬を食べることが神に対して最も重い罪になっています。
馬に関しては、神様が乗る神聖な「神馬」というところからきていることが予想できます。実際に私も霊感で真っ白な神馬を視た経験がありますし、ユタの神棚には必ず神馬を祀っています。
牛に関しては、伝承説話の中で村人の信仰心のなさに怒った神様が牛の姿に化けて村人を懲らしめたという話があるので、その辺からきているのではないかと推測されます。
しかし、明治末年頃までは、琉球の各島々で「動物供犠」というのが行なわれており、ノロやユタが関与してその村の魔除けや個人的な重病人の回復祈願に、牛や豚を神様に捧げ皆で共食していた事実があります。
ある文献には琉球を制圧した薩摩が政治力強化の為に、それまで仏教が盛んだった奄美の仏像を壊して、神道を浸透させたとあります。お仏壇のお線香の前に鏡を置くように命令し配ったとあり、島人は見回りが来る時だけ線香の前に鏡を置いたと記述されてました。
なるほど、奄美のユタが神道では使わない、仏教的な道具のりん線香、ロウソクを神棚に置くのはその時代の名残を守ってきたからなんだと、私は解釈しています。
また、私を含め霊感において神様から直接「牛を食してはいけないと言われた」と言うユタの話も耳にしたことがありません。
私は自分で納得しないと気がすまないので、その疑問を解決するため身体を張って検証すべく、現在なんでも食べてます。
私の場合は何も起こりません、身体はどうもありません、また、神様に直接怒られる事もありません。
確かに、牛製品や特定の食べ物を食べれないというユタがいることも事実です、それが神のなさる技か政治的背景かどうかは私にはわかりません。
しかし、今後、私の子神(弟子)になる方には、もちろん最初の“興ナツ子親神様”の教えに従って、こう言います。
母の本家筋にユタがいなかったか調査しに行った時、母の父親の弟(その時95歳)から面白い話を聞いた。
終戦後に、沖縄から島流しにされたノロが箱舟に乗ってこの大瀬集落に漂着したそうだ。御祖父さんの家族が面倒を見ていたらしい。そのノロは村のために祭り事や人助けを一生懸命していた。
その後、奄美政府がユタ禁止令を打ち出し、奄美全島のユタの取り締まりが始まったが、そのノロは許可され、その活動が許されていたそうだ。
そのノロの死期が近づいた時、「私はこの家から天に上る」と言って、自分の住んでいた小さな平屋の中心部の天井に槍を突き刺し、真下で眠るように死んでいったらしい。
その後、我こそはそのノロの神様道具を引き継ぐ者だと名乗りをあげて20名位の人が神道具を譲り受けに来たが、祭り事等をちゃんとできる者(祝詞等)しかその資格がないとして、その道具を守っていたそうだ。
結局該当者がいなかったので、隠すためにどこかに埋めたが、その場所を忘れたらしい。もう少し早く来てくれれば、あんたに渡したのにと残念がっていた。